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自然災害はなぜ起こるのか? 執筆:赤木あつし

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こんにちは!
幸せ実践塾塾長の赤木あつしです。
 
いつもは「リストラブログ」を書いていますが、今回は
「「神との対話」シリーズを読む」
というメルマガからお届けしますね。

今回は第1章の13回目になります。

 

前回は、不安は走る
という話でした。

 

今回は、著者のニールが神に質問した、
「なぜ世界はこんな状態なのか?」
の答えをまとめてみます。

 

 

わたしは神のすばらしさを示すために、
あなたがたのまわりを
完全ずくめにしたりはしない。
神の愛を実証するために、人間が愛を
実証する余地をなくしたりはしない。
すでに説明したように、愛を示すには、
まず愛さないということが
可能でなければならない
完全無欠の絶対世界はべつとして、
それ以外では
対極の存在なしには何も存在しえない。
(p.48)

 

なぜ不幸なことが起こるのか?

 

なぜ、自然災害で被害にあったり、
時には命を奪われることがあるのか?

 

そういう問への答えとして、
神は上記のように言っています。

 

闇がなければ、
光を体験することができません。

 

不幸という体験なしに、
幸福という体験もあり得ないのです。

 

したがって、
なぜそういうことが起こるのか?
という問の答えは、
私たちが愛を体験するため
と言えるでしょう。

 

 

たとえば、3.11の大災害では、
列を作って配給を待つ人々の姿が、
世界中に感動を与えました。

 

もしあの状態でなかったとしたら、
世界の人々は感動したでしょうか?

 

感動というのは、魂が
「これが私だ!」と叫んでいるのです。

 

つまり、「これこそが愛だ!」と感じて、
狂喜しているのです。

 

 

素朴な関係のなかでは、
必ず対極が存在する。
正反対のものが必ずある。
(中略)
世界がいまの状態なのは、
ほかの在り方ができず、
まだ物質的に素朴な領域にあるからだ。
地震やハリケーン、洪水、竜巻など、
あなたがたが天災と呼ぶものは、
一方の極から対極への要素の
移動にほかならない。
生死の循環はすべて、この移動の一部である。
それが生命のリズムであり、
素朴な領域にあるものはすべて、
このリズムに従う。
生命それ自体がリズムだからだ。
それは波であり振動であり、
「存在のすべて」の鼓動だ。
(p.50 – 51)

 

つまり、私たちが
まだ自然をコントロールできるほど
精神的に成長していない(=素朴)ため、
自然は極から極へと揺れ動くしかない、
ということになります。

 

 

病や不調は健康と快調の対極であり、
あなたがたの要請に応じて現実になる。
どこかのレベルで自らが引き起こさなければ
病気にはならないし、
元気になろうと決意さえすれば快くなる。
個人的な深い失望も自分で選んだものだし、
世界的な災厄は世界的な意識の結果である。
(p.51)

 

つまり、神が与えた罰ではなく、
私たちがどこかのレベルで選んだものが、
この現実だと言うのです。

 

だから実際、
気が張り詰めていれば病気をしない、
と思える現実が現れます。

 

私も今は、
滅多に仕事を休むような病気はしません。

 

病気をしている暇がないからです。

 

 

だから、世界の悪と呼ぶものを
非難してはいけない。それよりも、
それのどこを悪と判断すのか、
どこを変えたいのかと自問しなさい。
外に向かってではなく、内に向かって
「この災厄を前に、
いま自分は何を体験したいのだろう。
自分のどの部分を引き出したいのか」
と問いかけなさい。人生のすべては、
あなた自身の創造の道具なのだから。
そして、出来事のすべては、
自分は何者なのかを決定し、
その自分になる機会を与えるために
存在しているのだから。
これがすべての魂にとっての真実だ。
宇宙には創造者がいるだけで
被害者はいない
(p.51)

 

あなたがたは
他者が歩む因果(カルマ)の道を、
善いとか悪いとか判断してはならない。
成功をうらやまず、失敗を憐れむな。
魂の決算の時がきたら、
何が成功で何が失敗になるかわからない。
ものごとを災難とか、
喜ばしい出来事とか言うのは、
それをどう活用するかを決めてから、
あるいは見届けてからにしなさい。
ひとつの死が数千の生命を救うなら、
それは災いだろうか。
(p.52)

 

すべての出来事、すべての現実は、
私たちが「自分とは何者か」を決定し、
表現する機会に過ぎません

 

だからそれを、
無意識に悪いと非難するなと言うのです。

 

ましてや他人の人生に対して口出しし、
批判したり哀れんだりするなと。

 

 

つまり、すべての現象を、
自分のための機会だと考えるように、
ということなのです。

 

もしこの世が、
概念を体験するための場なら、
まさにそうだと言えるでしょう。

 

私たちはそれぞれに、
自分の概念を体験しようとしているのです。

 

そのための機会があるだけなのですから、
それを善いとか悪いとか、
評論することが間違っています。

 

その与えられた(実は自分で与えた)環境で、
自分がどうありたいかを考える。

 

それだけで良いのです。

 

 

たとえて言うなら、
大病を患った時、自分の不幸を嘆くな、
ということです。

 

それは出来事に翻弄されているだけです。

 

そうではなく、大病という現実を前に、
自分とは何者であるかを決定し、
それを表現すべきなのです。

 

たとえば、もし自分が愛であり、
愛を表現するとしたらどうでしょう?

 

大病になったことによって、
実はそれまで健康な肉体という
素晴らしいものを得ていたのだと
気づくかもしれません。

 

そうすると、大病になったとはいえ、
まだ自分には非常に多くの健康があり、
自分の肉体は、
自分のために日々働いているのだと
考えることができます。

 

肉体の一つひとつの部位に、
肉体を構成する一つひとつの細胞に、
感謝したくなるかもしれません。

 

また大病になった臓器は、
そのことを自分に気づかせるために、
あえて痛みを伴う不健康な状態になり、
苦しんでいると考えることもできます。

 

もしそうだとしたら、その臓器に、細胞に、
詫びたくなるかもしれません。

 

自分がこれまで気付かなかったばかりに、
自分のために尽くしてくれていた身体に
多大な負担を与えてしまっていた。

 

そう思ったら、
詫びて、感謝するということを、
したくてたまらなくなるかもしれません。

 

もしそうなったら、
その大病は不幸なことでしょうか?

 

だから「決めつけるな」と言うのです。

 

自分がその機会をどう活用するかを
決めてからでも遅くはないと。

 

 

「みやざき中央新聞」の社説に、
工藤房美さんの話が載っていました。

 

48歳で末期がんだとわかったとき、
工藤さんは最初、
「なぜがんになったんだろう」と
自分を責めたと言います。

 

しかし、
自分の身体の部位ばかりか、
がん細胞を含む細胞の一つひとつに
「ありがとう」と言いたくなり、
毎日毎日「ありがとう」と言い続ける
闘病生活となったそうです。

 

がんの告知を受けて10ヶ月後、
子宮と肺と肝臓にあったがんは、
きれいに消えてしまったそうです。

 

社説では、工藤さんの著書、
「遺伝子スイッチ・オンの奇跡」
という本を紹介しています。

 

 

だから、闇のなかの光になりなさい
そして、
闇のなかにいることを呪ってはいけない。
また、まわりが自分と違うものばかりでも、
自分が何者であるかを忘れてはいけない
そして創造物をほめたたえなさい。
たとえ、それを変えたいと思っても。
最も大きな試練が、
最も偉大な勝利になる可能性がある。
あなたが生み出す体験は、
自分が何者であるか、そして
何者になりたいかという宣言なのだから。
(p.53 – 54)

 

私たちは、自分の人生の現実を前に、
何者であろうとしているのでしょうか?

 

それを決める機会が、それを体験する機会が、
今、目の前にあるのです。

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88 赤木あつし

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