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「今の生活に不安を感じる」方必見の1冊!その本とは。。? 執筆:祝田 良則

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はじめまして。

祝田良則

(いわいだ・よしのり)と申します。

 

本を読む喜び、楽しさを、多くの人に伝えたい。

その想いを胸に、日々の習慣として続けています。

 

本を読むようになったきっかけは、うつ病の発症。

なんとか克服し、通常の生活に戻りましたが、

「このままではいけない」という危機感を持ちました。

 

そんなとき、偶然、目についたのが一冊の本。

ニール・ドナルド・ウォルシュさんの「神との対話」でした。

 

それまで、スピリチュアル的なものに、

まったく興味がありませんでしたが、

その時は、なぜか気になり、買ってしまいます。

 

最初は半信半疑でしたが、

読み始めると、

そのあまりの素晴らしさに感動しました。

 

この本は、私にとって、まさに

「人生に革命を起こす」一冊となりました。

 

記念すべき初回の投稿は、そんな思い出の一冊から始めたいと思います

 

☆    ★    ☆    ★    ☆    ★    ☆

お薦めの本の紹介です。

ニール・ドナルド・ウォルシュさんの

『神との対話 普及版〈1〉個人的な真実について』です。

ニール・ドナルド・ウォルシュ

(Neale Donald Walsch)さんは、

米国の著述家です。

生徒の準備が

整ったところで、

教師が現れる

神と対話をする。

そんな、不可能なことだと思われてきたことが、ごく普通の一人の男性、ウォルシュさんに突然起こります。

1992年の春のことでした。

質問を紙に書くと、

「霊感」としか言いようがないものが降りてくる。
ウォルシュさんは、ただ、それを書き留める。

 

「神との対話」は、その繰り返しで続いていきます。

 

この対話については、

黙っていたほうがずっと楽だったと思う。

 

だが、この対話が行われたのは、

楽をするためではなかった。

だから、この本のために

(神を恐れぬ者、インチキ、これまで真実の

生き方をしてこなかった偽善者、

あるいはもっと悪いことに聖者と呼ばれて)

苦労することになっても、

もう立ち止まることはできない。

それに、立ち止まりたいとも思わない。

この出来事のすべてに背を向けようと

すればできたが、わたしはそうしなかった。

 

ここにお見せする内容について、

世間の言葉に耳を傾けるよりも、

自分の直観に従おうと決めたからだ。

 

この本はナンセンスでもなく、

欲求不満の想像力の暴走でもなく、

人生の過ちを弁解しようとする

男の自己正当化でもない。

 

私の直感がそう語っている。

じつはわたしもそれが不安だった。

そのすべての可能性を考えた。

そこで、原稿を何人かに

読んでもらったところ、みんなが感動し、

泣いた。

 

この本にこめられた喜びや

ユーモアに笑い、胸を打たれ、力を得た。

 

おおぜいのひとが、自分は変わったと言った。

 

おおぜいのひとが、

この本のおかげて自分は変わったと語ってくれた。

 

この本はすべてのひとのためのものだ、

出版されなければならないと気づいたのは、

そのときだ。

この本は、一心に答えを求めているひとたち、

まじめに問いかけている

ひとたちへのすばらしい贈り物だ。

 

真剣な心と、

魂のあこがれと、

開かれた精神をもち、

真実を求める旅を始めたひとたちすべてへの、

すばらしい贈り物だ。

 

つまりは、わたしたちみんなの本なのだ。

この本は、

私たちがこれまでいだいてきた疑問について、

すべてとはいかなくても、

ほとんどをとりあげている。

 

人生と愛、目的と働き、

人と人間関係、善と悪、

罪と罪悪感、赦しと償い、

神への道と地獄への道など、

じつにさまざまなことが話題となっている。

セックス、力、金、子供、結婚、離婚、

ライフワーク、健康、将来、過去と現在・・・・・

すべてが率直に語られている。

 

戦争と平和、知と無知、

与えることと奪うこと、

喜びと悲しみについて探っている。

具象と抽象が、見えるものと見えないものが、

真実と真実でないものが見つめられている。
(中略)

ほんとうは、神はすべての者に

語りかけている。

善人にも悪人にも。

聖者にも俗人にも。

そして、もちろん、

そのいずれでもないわたしたちにも。

たとえば、あなた。

神はさまざまな方法であなたの人生を訪れる。

この本もそのひとつだ。

“生徒の準備が整ったところで、

教師が現れる”という

古い格言がある。

この本はあなたの教師なのだ。

 

 『神との対話 普及版〈1〉』 はじめに より

 ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

本書は、ウォルシュさんが、

口述筆記を通して、

神と“対話”した内容をまとめた一冊です。

その中からいくつかピックアップしてご紹介します。

神とコミュニケートするには?

「神はどんなふうに、誰に語りかけるのか」

ウォルシュさんのこの問いに、

神は以下のように答えます。

 

第一に、「語る」ではなく、

「コミュニケートする」

と言うことにしよう。

神とのコミュニケーションは、

言葉よりもすぐれた、

言葉よりずっと豊かで正確なものだからだ。

 

言葉で語りあおうとすると、

とたんに言葉のもつ制約に

しばられることになる。

だからこそ、わたしは言葉以外でも

コミュニケートする。

それどころか、言葉はめったに使わない。

いちばん多いのは、感情を通じたコミュニケーションだ。

感情は、魂の言語だ。

何かについて、

自分にとっての真実を知りたいと

思ったときには、

自分がどう感じるかを探ってみればいい。

感情というものは、なかなか見つからない。

自覚するのはさらにむずかしい。

だが、最も深い感情のなかに、

最も高い真実が隠されている。

要はこの感情をつかむことだ。
(中略)

わたしはコミュニケーションの手段に思考も使う。

思考と感情は同じではないが、

同時に生まれることがある。

思考を通じたコミュニケーションには、

イメージや画像が使われる。

だから、単なる言葉よりも思考のほうが、

コミュニケーションの道具として効果的だ。

感情と思考のほかにもうひとつ、

経験という、

偉大なコミュニケーション手段がある。

感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、

最後に言葉が使われる。

言葉はじつは、

最も非効率的なコミュニケーション手段だ。

 

最も曲解されやすいし、誤解されやすい。

どうしてか? それは言葉の性質のためだ。

言葉やただの音にすぎない。

感情や思考や経験の代用だ。

シンボル、サイン、しるしでしかない。

真実ではない。ほんものではない。

言葉は理解の助けにはなる。

あたがたはものごとを、経験によって知ることができる。

しかし、経験できないこともある。

だからわたしは、

知るためのほかの手段を与えた。

それが感情と呼ばれるものであり、

思考と呼ばれるものである。

さて、皮肉なことに、

あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、

経験をないがしろにしている。
経験をないがしろにしているから、

神を経験しても、それが

神について教えられていたことと違うと、

たちまち経験を捨てて言葉のほうをとる。

ところが、ほんとうは逆であるべきなのだ。

経験や感情によって、ひとは直感的に知る。

いっぽう、言葉は知っていることを

シンボル化しようとする試みにすぎず、

混乱の原因になることも多い。

ところで、わたしは経験や感情、

言葉をコミュニケーションの道具として使うが、

経験や感情、言葉のすべてがわたしからの

コミュニケーションだというわけではない。

すべての感情や思考、経験、それに言葉が、

わたしから発せられたものだとは限らない。
わたしの名で、べつの者が

たくさんの言葉を口にしてきた。

わたしとは無関係なものによって、

たくさんの思考や感情が支えられ、

その結果、たくさんの経験が生まれてきた。

 

神からのメッセージと、そうでないものとを

見分けることは、なかなかむずかしい。

この二つの違いはわかりにくい。

区別するには、基本的なルールを

すなおにあてはめなければならない。
わたしのメッセージはつねに、

あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、

最も偉大な感情である。

それ以外はべつの源から生じている。

そう考えれば、簡単に区別できるだろう。

どんなに未熟でも、いちばん気高く、

くもりがなく、偉大なものはすぐにわかるからだ。

 『神との対話 普及版〈1〉』 

第1章 より ニール・ドナルド・ウォルシュ:著

 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 

人間は、コミュニケーションの道具

として「言葉」に多くを頼っています。

 

そのため、言葉以外での

コミュニケーションが

おろそかになりがちです。

 

感情を押し殺し、直感を無視し、

論理的な思考だけで物ごとを判断する。
目には見えない大いなる存在を否定し、

五感で感知するものだけを信じる。

そんな状態では、神と対話することはおろか、

メッセージを受け取ることすらできません。

存在するすべては「愛」である

神が創ったこの世界を支配する法則は、非常に単純で、以下の3つに集約されます。

  • 思考は創造につながる
  • 不安や恐怖は似たエネルギーを引き寄せる
  • 存在するすべては愛である

3番めの「存在するすべては愛である」とは、

どのような意味でしょうか?

 

愛は究極の現実だ。それが唯一であり、

すべてだ。愛を感じるということは、

神を体験することだ。
至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、

存在したすべて、

これから存在するであろうすべても愛である。

絶対領域に入るとき、あなたがたは愛のなかへ歩み入る。
相対性の領域は、わたしが自らを

体験するために創り出したものだ。

このことは、もう説明した。

だからといって、

相対性の領域が現実になるわけではない。

それはあなたかたとわたしが自分を

体験的に知るために工夫した、

そしていまも工夫しつづけている、

創られた現実だ。
だが、この創られた現実は

ほんとうに現実的に見える。

現実的に見せて、

ほんとうに存在すると

思わせるのが目的だからだ。

この方法によって、神は自分以外の「べつの何か」を考案した(厳密な意味ではこれは不可能なのだが。なぜなら、神、すなわちわたしは「すべて」であるから)。
「べつの何か」、

つまり相対性の領域を創造することで、

わたしは、あなたがたが神であると

言われるだけでなく、

神であることを選択できる

を創り出した。その領域で、

あなたがたは概念ではなく

創造行為として、神格を体験できる。
不安や怖れは愛の対極である。

これが第一の両極。

相対性の領域を創ったわたしは、

まず自らの対極を創り出した。

 

さて、あなたがたが暮らす物質的な領域には、

二つの在り方しかないと言った。

不安と愛である。

不安に根ざした思考が、

ひとつの物質的な場を生む。

愛に根ざした思考がもうひとつの場を生む。
地球に生まれた〈マスター〉たちとは、

相対性の世界の秘密を発見したひとたちである。

 

そして、それが現実だと認めなかった

ひとたちである。

要するに〈マスター〉とは、

愛だけを選択したひとたちである。

 

あらゆる時に、あらゆる環境で、

彼らは愛を選択した。

自分たちが殺されても、

殺害者を愛した。

迫害されても、迫害者を愛した。
このことを理解するのは

非常にむずかしいだろうし、

まして見習うことはできにくいだろう。

だが、〈マスター〉はすべてそうしてきた。

 

哲学はどうでもいいし、

伝統も、宗教もどうでもいい。

すべての〈マスター〉は愛だけを選んできたのだ。

あなたがたはそんな例を

はっきり見てきた。大

昔から何度も何度も、目にしてきた。

あらゆる時代、あらゆる場所で、

それは示されてきた。

あなたがたの人生のなかで、

いつも見せられてきた。

宇宙はあらゆる設定を利用して、

この真実をあなたがたの前に

差し出してきた。

 

歌や物語、詩、踊り、言葉、動き、

動く絵つまり映画、

そして、本と呼ぶ言葉の集まりを通じて。

その真実は最も高い山頂から声高に叫ばれ、

最も低い場所でささやかれてきた。

人類のあらゆる経験の回廊に、

この真実がこだましている。

答えは愛、それが真実だ。

だが、あなたがたは聞こうとしなかった。
いま、この本にめぐりあったあなたは、

神が数えきれないほどの回数、

数えきれないほどの方法で語ってきたことを、

もう一度語ってほしいと言う。

それでは、

もう一度――ここで――この本のなかで語ろう。

今度はあなたは耳をかすだろうか。

ほんとうに聞こうとするだろうか。
何があなたをこの書物に導いたと思うか?

どうして、あなたがこの本を

手にすることになったと思うか?

わたしが自分のしていることに気づかないとでも思うのか?
宇宙に偶然などというものはない。

 『神との対話 普及版〈1〉』 第1章 より 

ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 

吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

神が、自分ではないもの、

愛ではないものを、

私たちを通じて経験するために

創った場所。

 

それが、「相対性の世界」、

つまり、私たちの生きている世界です。

 

愛を体験的に知るためには、

愛ではないもの、つまり、

不安や恐れがどのようなものなのか、

体験する必要があるということ。

 

私たちが、神と一体だったときの

記憶を忘れて、

この世に生まれてくるのは、そのためなのですね。

神には何も必要ではない

神は、私たちに対して従順を求めていませんし、仕えてもらう必要もありません。

 

それらのことは、昔から支配者が人民に求めてきた態度だと指摘します。

神には何も必要ではない。

「すべて」、

それが神だからだ。

欠けているもの、

必要なものは何もない。

それが神という存在なのだ。

神が何かを必要とする――

それが手に入らなければ、

怒って相手を罰すると考えるなら、

あなたはわたしよりもずっと

小さな神を信じることになる。

あなたがたは劣った神の子だということになる。

わが子たちよ、

もう一度、はっきり言う。

わたしには必要なものはない。

わたしは何も求めない。
だからといって、

わたしに欲求がないわけではない。

欲求と必要性は同じではないからだ

(同じだと思っている者が多いが)。
欲求とは、すべての創造のはじまりである。

最初の考えである。魂のなかの偉大な感覚である。

それは神であり、つぎに何を創造するかの選択である。

では、神の欲求とは何か。
第一に、栄光のなかでわたし自身を

体験することを願った。

わたしが何者であるかを知ることを願った。

あなたがたを、そして宇宙の世界すべてを

創り出す前には――それは不可能だった。
第二に、あなたがたに

「自分で選んで創造し、体験する」

という力を与えて、真の自分を

知って体験させようと願った。
第三に、生命プロセスの

すべてがたえまない喜びと

創造の体験であり、

終わることのない拡大で、

一瞬一瞬が充分に満たされることを願った。
欲求を実現させるために、

わたしは完璧なシステムを

つくりあげた。

 

そのシステムはいまも

働きつづけている。いま、

この瞬間にも。あなたがたと

わたしとのたったひとつの違いは、

それを知っているかどうかだ。

 

あなたがたがすべてを知った時には

(その時はいつきてもおかしくない)、

あなたがたも、わたしと同じように感じるだろう。

大きな大きな喜びと愛と受容と祝福と感謝を感じるだろう。
この五つは神の姿勢である。

あなたがたもこの五つを

実践すれば神性が得られることを、

この対話のなかで教えてあげよう。

短い質問なのに、ずいぶん長い答えになった。
そう、自分の価値観に従いなさい。

それが役に立つと思う間は。

ただし、その価値観が役に立っているかどうか、

最も気高く、すぐれた考えを体験する

場を与えてくれているかどうか、

思考と言葉と行動を通じて、点検しなさい。
価値観をひとつずつ検討しなさい。

外の光にあててみなさい。

世界に向かって、自分が何者か、

何を信じているかを、ためらわず、

はっきりと言いきれるなら、

あなたは幸せだ。

 『神との対話 普及版〈1〉』 第2章 より 

ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 

全知全能である神が、人間に対して怒ったり、罰を与えたりする。

よく考えると、おかしなことです。
「間違い」を犯すのが嫌なら、

最初から、間違うことのない

“完璧な”存在として、

人間を創り出せばよかったのですから。

神は、意図的に干渉することはありません。

それは、私たちに、自由に、

自分の価値観にしたがって

生きることを望んでいるからです。

 

決して干渉せず、決して見捨てないこと。

それが、神の私たちへの最大の「愛」といえますね。

魂の言うことに耳を傾けるためには?

神は、欲求不満や不安は、魂の言うことに耳を傾けないから起こると指摘します。

では、どうすれば、自分の魂の声に耳を傾けられるのでしょうか。

まず自分自身を批判するのをやめなさい。何が魂の望みかを知って、それに従いなさい。魂とともに行きなさい。

 

魂が追求しているのは――

想像しうるかぎりの最高の愛の感情だ。

これが魂の欲求、目的だ。
魂は感じようとしている。

愛を知ろうとしているのではなく、

感じようとしている。
最高の感情は「すべてである」存在と

合体する経験だ。それは真実へと

かえることであり、

魂が切望しているその真実が、完璧な愛である。

完璧な愛とは色のなかの完璧な

白のようなものだ。

多くの人は白とは色がないことだと

考えているが、そうではない。

あらゆる色を含んでいるのが白だ。

白は存在するあらゆる色が合体したものだ。

だから、愛とは感情――

憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望など――が

ないことではなく、あらゆる感情の総和だ

。あらゆるものの集合、すべてである。
だから、魂が完璧な愛を経験するには、

「人間のあらゆる感情」を

経験しなければならない。
自分が理解できないことに、

共感できるだろうか。

自分が経験しなかったことについて、

他人を許せるだろうか?

そう考えれば、魂の旅がどんなに単純で、

しかもすごいものかがわかるだろう。

そこでようやく、魂が何をめざしているかが理解できるはずだ。
人間の魂の目的はすべてを経験すること、

それによってすべてになりえることだ。
一度も下降したことがなければ、

どうして上昇できるだろう?

一度も左になったことがなくて、

どうして右になれるだろう?

冷たいということを知らなければ、

どうして温かくなれるだろう?

悪を否定していたら、どうして善になれるだろう?
選択肢がなければ魂は何も選べない。

魂が偉大さを体験するためには、

偉大であるとはどういうことかを

知らなければならない。
そこで魂は、偉大さは

偉大でないところにしか存在しないと気づく。

 

だから、魂は偉大でないものを決して非難しない。

祝福する。

そこには自らの一部、

別の一部が現れるために必要な一部があるから。
もちろん、魂の使命は

わたしたちに偉大さを選ばせること――

選ばなかった部分を避難せず、

最善の自分を選ぶようにさせることだ。

こんな大きな使命を果たすには、

いくつもの生涯が必要だ。

あなたがたはすぐに批判しようとし、

自分が選ばなかったものを

祝福しないで、

ものごとを「間違っている」とか

「悪い」とか「充分ではない」と

決めつけたがる。

非難するよりも、もっといけないこともある。

 

自分が選ばなかったものを傷つけようとするのだ。

 

破壊しようとする。

自分が賛成できない人間や場所や

ものごとがあれば、攻撃する。

あなたがたの宗教と対立する宗教があれば、

間違っていると言う。

自分と違う思想があれば、ばかにする。

自分と違う考え方があれば、拒否する。

だが、それは間違っている。

それでは宇宙の半分しか創造できない。

そして、残る半分も拒否していたら、

自分の側の半分さえ理解できない。

 『神との対話 普及版〈1〉』 第3章 より 

ニール・ドナルド・ウォルシュ:著 吉田利子:訳 サンマーク出版:刊

 

私たちは、「完璧な愛」を経験するため、

つまり、すべての感情を経験するために

この世に生を受けました。

悲しみや苦しみ、嫉妬や罪悪感などの

ネガティブな感情を抱くのも、

ある意味、不可避なことだともいえます。

 

悲しみがなければ、喜びはありません。

苦しみがなければ、楽しみもありません。

「人生で起こることは、すべてに意味がある」

まさに、この言葉は真理を表した言葉ですね。

 

ウォルシュさんの「神との対話」が、日本で刊行されたのが1997年。

それから、20年の月日が過ぎましたが、

色褪せるどころか、ますます輝きを増しています。

私たちが生まれてきた理由、

この世界が苦しみや悲しみに

あふれている理由、

そして、そもそも神が

この世を創った理由。

神は、これまで宗教に委ねられてきた難問を、

論理的に、誰でもわかる言葉で説明してくれます。

ウォルシュさんと対話したのは、本当に「神」なのか?

それを疑う人は、大勢います。

ただ、本書の内容は、

とても、普通の一人の人間が想像で描けるものではないです

どう考えても「神が語った」としか思えないほど、

奥が深く、真理に近いのは間違いありません。

本当に「神との対話」なのか、そうでないのか。

それは、大きな問題ではないです。

大事なのは、「誰が書いたか」ではなく、

「何が書かれているか」。

くだらない偏見や先入観は抜きにして、

多くの人に読んで頂きたい名著です。

 

109 祝田 良則

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2 Comments »

  • 理解できないところがあるのですが、
    第1章の 文庫版 p44に
    愛に支えられた行動をとれば生き延びるだけでなく、勝利するだけでなく、成功するだけでなく、それ以上のことができる。

    p132
    本当の自分を実現した瞬間から──あなたは中傷され、唾棄され、ののしられ、捨てられ、ついには──彼らのやり方で責められ、裁かれ、糾弾されるだろう

    この二つは矛盾しませんか?

    • 村松さん。
      コメントありがとうございます。
      個人的な見解ですが、愛に支えられた行動をとる(=マスターとして生きる)ことは、自分の魂の欲求に従って生きることです。
      本人的には、完全無欠で至福の状態ですが、それが周囲から理解されることは、ほとんどありません。
      理解不能だけど、多くの人を魅了し、天才的な能力を発揮し、輝きを放ち続ける。
      だから、「存在を脅かされる」と恐れる人からは、厳しい迫害を受けることになるんでしょう。
      キリストやブッダなど、過去のマスターたちも例外なく、そのような道を歩んできましたね。


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